乙女峠の証し人
カトリック広島司教区列聖委員会

ゆかりの地を訪ねる

カトリック津和野教会

 
カトリック津和野教会
 重要伝統的建造物群保存地区にある津和野教会は1931年、ドイツ人シェファー神父により建立されたゴシック風の、畳敷きでステンドグラスが美しい教会です。司祭館も登録有形文化財に指定されています。
 隣接して乙女峠の展示室があり、乙女峠での厳しい迫害の様子が紹介されています。また、1682年( 天和2年)5月の禁教の高札や1868年( 慶応4年)4月の「切支丹邪宗門」の高札、永井隆博士の絶筆『乙女峠』の原稿なども展示されています。

乙女峠マリア聖堂

 
乙女峠マリア聖堂
 乙女山と呼ばれていたこの地は、永井隆の小説「乙女峠」により、乙女峠と呼ばれるようになりました。この乙女山には明治初年まで光琳寺があり、この寺に浦上のキリシタンは収容されることになったのです。
 1939年(昭和14年)セルメニヨ神父は光琳寺跡の土地を購入し、1951年(昭和26年)にはネーベル神父によって乙女峠マリア聖堂が建てられ、祈りの場として整えられました。
 聖堂内部の壁画には、イエスと聖母マリアの足元で迫害の苦しみを耐えているキリシタンの4つの場面が描かれています。
 流配されたキリシタンの指導者であった仙右衞門と甚三郎は、氷の張った池に沈められながらも手を合わせて祈っており、その下の場面には寺の中でロザリオを唱える婦人と子どもたちが見えます。
 右側には旧暦11月の冷え切ったころ、2週間も裸で座らされて鞭打たれる祐次郎が、寺の屋根にとまっている親子の雀を見つめています。
 その上には三つの三尺牢とその中で聖母マリアの御姿に似た婦人と出会った安太郎が描かれています。 

聖母と三尺牢の安太郎

 
聖母と三尺牢の安太郎
 安太郎に青い衣の美しい婦人が現れたことによって、乙女峠は、もっとも聖なる乙女である聖母マリアを思い出す名前となる特別な場所となりました。

「信仰の光」碑

 
「信仰の光」碑
 「信仰の光」碑は、1922年(大正11年)ヴィリヨン神父によって、乙女山に建てられました。

キリシタン氷責め池

 
 キリシタン氷責め池
   キリシタン氷責め池  流配キリシタンの収容された光琳寺境内には本堂の裏にかなり大きな池がありました。役人たちは、この池をキリシタンに棄教を迫るための拷問具として使用しました。旧暦11月の雪の降るころに、仙右衞門は役人から「裸になって池に入れ」と申し渡されたそうです。国太郎と甚三郎の親子、友八もこの氷の張った池に投げ込まれ、棄教を迫られました。

「乙女峠の聖母とその証し人」碑

 
「乙女峠の聖母とその殉教者」碑
 この碑は、配流100年を記念して1968年(昭和43年)に建てられ、中央に「乙女峠の聖母とその証し人」というブロンズレリーフがはめ込まれています。

改心者の墓

 
改心者の墓
 乙女峠の広場の上段は、かつて光琳寺住職の墓地でした。そこには現在、改心者の墓二基が置かれています。葬られている2人は、『異宗門徒人員帳』が作成された1871年6月( 明治4年5月)以降、高札撤廃にともなって流配者たちが帰郷する1873年(明治6年)までの間に亡くなった寅太郎(明治4年7月21日没)ときん(明治5年2月5日没)です。

蕪坂(千人塚)墓碑

 
蕪坂(千人塚)墓碑
 1891年(明治24年)、ヴィリヨン神父は、乙女山の隣の谷、蕪坂に葬られた36人の証し人たちの遺骨を1か所に集めて墓を建てました。墓碑には、「為義而被害者乃真福」(義のために迫害される人は幸いである。天の国はその人のものだからである。マタイによる福音書5章10節)と刻まれています。また、乙女峠から蕪坂まで続く山道は、十字架の道行となっています。