乙女峠の証し人
カトリック広島司教区列聖委員会

乙女峠の証し人たち

 
私たちは、津和野の証し人が37人であったことを次の文書などから知ることができます。


①『異宗門徒人員帳 津和野藩』(国立公文書館所蔵)

 1870年(明治3年)に在日外交団から全国に流配されたキリシタンの待遇改善が要請された結果、翌年、政府は外務省の楠本正隆と中野健明を全国に派遣し、キリシタンの調査を命じました。その調査に先立って、キリシタンを預かった諸藩から提出されたのが『異宗門徒人員帳』です。
 この『異宗門徒人員帳』(1871年(明治4年)5月記述)から死亡が確認されるのは、記載順に次の34人です。( )は、死亡年月日です。
 

正太郎(明治3年9月17日)
わ ゐ(明治4年4月30日)
さ の(明治3年11月21日)
と め(明治3年8月11日)
甚 吉(明治3年7月15日)
和三郎(明治1年10月9日)
清次郎(明治3年1月23日)
駒 吉(明治3年7月21日)
忠四郎(明治3年4月1日)
八十助(明治3年7月22日)
き り(明治4年1月4日)
兵 助(明治3年7月29日)
惣 市(明治4年1月5日)
三 八(明治3年9月27日)
源 八(明治3年10月8日)
吉三郎(明治3年5月20日)
す き( 明治3年閏10月10日)
熊 吉(明治4年3月17日)
こ ま(明治3年11月11日)
松五郎(明治4年2月18日)
国太郎(明治3年閏10月18日)
祐次郎(明治3年11月26日)
わ ひ(明治3年7月6日)
そ の(明治3年7月10日)
安太郎(明治2年1月22日)
し も(明治3年9月6日)
さ い(明治3年8月7日)
な か(明治3年7月13日)
清四郎(明治2年2月18日)
さ め(明治3年4月24日)
三右衞門(明治3年6月15日)
甚三郎(明治3年4月25日)
又 市(明治3年10月16日)
孫四郎(明治3年3月12日)

 

異宗門徒人員帳

異宗門徒人員帳

 

 ここに示したのは津和野藩が提出した文書の冒頭の部分と、中野郷出身の守山国太郎一家のことが記されている部分です。これによると、守山一家は11人のうち8人が津和野に流されました。尾道で津和野藩の役人に渡されたのが明治3年正月(旧暦)、そしてその年のうちに国太郎自身、三男の甚吉、四男の祐次郎が亡くなりました。
 

②守山甚三郎の『覚書』(日本二十六聖人記念館所蔵)

 甚三郎は、守山国太郎の長男で、第一次流配の一人でした。彼は、牢内で牢死した33人を死亡年月日順に洗礼名を添えて記録していました。が明治4年5月現在の記録ですから、その後の死亡者を知るうえで貴重な史料となっています。この『覚書』によって、カタリナ岩永もり(明治4年7月20日(1871年9月4日)死亡)とカタリナ松尾かめ(明治5年9月11日(1872年10月13日)死亡)の2人の証しを知ることができます。
 

守山甚三郎の『覚書』

守山甚三郎の『覚書』

 

③蕪坂の「証し人の名碑」

 

蕪坂の「殉教者名碑」

蕪坂の「殉教者名碑」

 

 この碑には、に見えない一人の幼児の名前が記されています。最後に見える「ペトロ新三郎(2歳)」です。ヴィリヨン神父が、それまで蕪坂に葬られていた36人の証し人たちの遺骨を、1891年(明治24年)に一つの墓に納めて以来、この新三郎は、今日まで証し人として崇拝されてきましたので、彼をも証し人に加えることにしました。
 なお、浦川和三郎の『旅の話』には36人の証し人が列挙されていて、そのうちの一人に馬場出身のペトロ新三郎(明治3年6月23日(1870年7月21日)死去、享年2歳)の名が見えます。おそらくこの者に該当すると思われます。
 

乙女峠の証し人一覧表

 

深堀和三郎(アントニオマリア) 大橋出身/辰十長男[明治1年10月9日(1868.11.22)死去]26歳
森安太郎(ジョアンバプチスタ) 阿蘇出身/世帯主[明治2年1月22日(1869.3.4)死去]30歳
岩永清四郎(ジョアンヨゼフ) 山中出身/世帯主[明治2年2月18日(1869.3.30)死去]53歳
藤田清次(治)郎(ミカエル) 川上出身/わひ養子清蔵長男[明治3年1月23日(1870.2.23)死去]3歳
松岡孫四郎(イナシオ) 一本木出身/世帯主[明治3年3月12日(1870.4.12)死去]71歳
山口熊吉(ミゲル) 坂本出身/世帯主[明治3年3月17日(1870.4.17)死去]55歳
深堀忠四郎(パウロ) 小路出身/世帯主[明治3年4月1日(1870.5.1)死去]62歳
片岡さめ(マリナ) 辻出身/清四郎母[明治3年4月24日(1870.5.24)死去]75歳
岩永甚三郎(ドミンゴス) 平出身/源八長男[明治3年4月25日(1870.5.25)死去]27歳
岩永吉三郎(ドミンゴス) 平出身/源八次男[明治3年5月20日(1870.6.18)死去]26歳
片岡三右衛門(パウロ) 辻出身/清四郎三男[明治3年6月15日(1870.7.13)死去]7歳
藤田わひ(サビナ) 川上出身/亀治郎長男羽右衛門妻[明治3年7月6日(1870.8.2)死去]51歳
中島その(カタリナ) 馬場出身/亀吉母[明治3年7月10日(1870.8.6)死去]57歳
深堀なか(カタリナ) 大橋(馬場)出身/さい連子[明治3年7月13(15)日(1870.8.9)死去]12歳
守山甚吉(ジョアンバプチスタ) 中野出身/国太郎三男[明治3年7月15日(1870.8.11)死去]18歳
中島駒吉(ペトロ) 馬場出身/亀吉弟[明治3年7月21日(1870.8.17)死去]18歳
深堀八十助 小路出身/忠蔵長男[明治3年7月22日(1870.8.18)死去]1歳
片岡兵(与)助(ドミニコ) 山中(辻)出身[明治3年7月29日(1870.8.25)死去]39歳
深堀さい(カタリナ) 大橋(尾崎)出身/市三郎妹[明治3年8月7(5)日(1870.9.2)死去]52歳
深堀とめ(カタリナ) 横田(中野)出身/松五郎妻[明治3年8月10日(1870.9.5)死去]59歳
深堀志も(リナ) 小路(馬場)出身/忠四郎長男忠蔵妻[明治3年9月6日(1870.9.30)死去]23歳
平井正太郎(ロレンソ) [明治3年9月17日死去(1870.10.11)]8歳
片岡三八(パウロ) 辻出身/清四郎長男[明治3年9月27日(1870.10.21)死去]14歳
岩永源八(ジョアン) 平出身/世帯主[明治3年10月8日(1870.11.1)死去]56歳
岩永又市(ドミニコ) 平出身/世帯主[明治3年10月16日(1870.11.9)死去]47歳
岩永すき(カタリナ) 平出身/又市妻[明治3年閏10月10日(1870.12.2)死去]45歳
守山国太郎(ジョアンバプチスタ) 中野出身/世帯主[明治3年閏10月18日(1870.12.10)死去]66歳
松尾こま(マダレナ) 上土井出身/岩吉妻[明治3年11月11日(1871.1.1)死去]49歳
松尾さの(サビナ) [明治3年11月21日死去(1871.1.11)]3歳
守山祐次郎(ドミニコ) 中野出身/国太郎四男[明治3年11月26日(1871.1.16)死去]14歳
深堀きり(る)(キリスナ) 大橋(馬場)出身/市三郎妹[明治4年1月4日(1871.2.22)死去]44歳
片岡惣市(ドミンゴス) 辻(金朱)出身/世帯主[明治4年1月5日(1871.2.23)死去]46歳
深堀松五郎(ジョアンバプチスタ) 横田(町)出身/世帯主[明治4年2月18(17)日(1871.4.7)死去]61歳
相川わゐ(カタリナ) 下土井出身/友八妹[明治4年4月30日(1871.6.17)死去]27歳
岩永もり(カタリナ) 平出身/又市娘[明治4年7月20日(1871.9.4)死去]6歳
松尾かめ(カタリナ) 上土井出身/岩吉娘[明治5年9月11日(1872.10.13)死去]35歳
新三郎(ペトロ) 馬場出身[明治3年6月23日(1870.7.21)死去]2歳

 

乙女峠の証し人の横顔

 

深堀 和三郎 ふかほり わさぶろう

 和三郎は、津和野の最初の証し人です。すでに長崎で拷問を受けていた和三郎のからだはすっかり衰弱しており、津和野での寒さと飢えが重なって自分でも回復の見込みなしと覚悟をし、キリシタンとしてのよき死を迎える準備にとりかかっていました。高木仙右衞門が牢の床板を剥がして掘った抜け穴から出て、三尺牢に入れられた和三郎を見舞いに行き、「イエズス(イエス)さまのご苦難を思い出しなさい」と慰めながら、励ましました。このとき、自分たちはいつまでもこうしているのではない、必ず証し人としての栄光を得るのだと信じ、ここで倒れて皆といっしょに命をデウスにささげ得ないのを遺憾に思った和三郎が苦しい息の下から仙右衞門に向かい、「私の屍体はこのままにしておいて、皆が江戸の鈴ヶ森で刑に遭うとき、私の骨もともに持っていってください」とくれぐれも頼んだそうです。

岩永 清四郎 いわなが せいしろう

 清四郎は、山口藩(萩)で寒ざらしという、寒中にさらされる激しい拷問に遭いながらも、信仰を棄てることのなかったツルの父親でした。彼は、慶応3年6月に捕らえられ、長崎の桜町の牢で過酷な拷問を受けたまま津和野に送られたのですから、すでに心身ともに衰弱していました。そのうえ赤痢にかかり、苦しげに唸っていました。仙右衞門が、「天主にささげて気強く耐え忍ぶように」と勧めると、清四郎は「あまりに苦しくて無意識のうちに声が出てしまいますが、心は決して忘れてはおりません。命は天主さまにささげております」と答え、それからは自らに打ち克ってうめき声ひとつ立てなくなりました。亡くなる前夜、仲間の10人とともに祈っていた清四郎は、「私はやがて天国へ行きます。行ったら天主さまに祈って、11人は11人とも一人残らず天主さまのおそばに引き取っていただくから、それを頼りに辛抱しなさい」と言ったそうです。

岩永 もり いわなが もり

 「もりちゃん」は、津和野での幼い証し人の一人です。飢えに苦しむ子どもたちにおいしいお菓子を見せた役人が、「食べてもいいがそのかわりにキリストは嫌いだと言いなさい」と言うと、もりちゃんは、「お菓子をもらえばパライゾ( 天国)へは行けない。パライゾへ行けば、お菓子でも何でもあります」と答えて、永遠のしあわせを選びました。

森 安太郎 もり やすたろう

 和三郎の死後、裸のまま雪の中の三尺牢に入れられ、棄教を迫られたのが安太郎でした。安太郎は、聖母マリアへの信心が篤く、人びとの嫌うことを引き受け、自分の食べ物も人に与えるという人物でしたから、役人たちは、彼が棄教すればほかの者も棄教すると思い、厳しい責めを与えたのです。しかし、彼の信仰は堅固でしたが、やがて衰弱して見る影もなく痩せ細ってしまいました。仙右衞門と甚三郎が抜け穴をくぐって慰めに行き、「一人で最期を迎えるのはさぞさびしいことでしょう」と言うと、安太郎は、「夜四つ(午後10時)から夜明けまで、青い着物を着て、青い布をかぶり、さんたまりやさまの御影の顔だちに似ておりますその人が、お話をしてくださるので、少しもさびしくありません。けれども、このことは私の生きている間は、だれにも話してくださらないように」と。
 甚三郎が安太郎に、「おかあさんに言っておきたいことはありますか」とたずねると、「私は、三尺牢の中を十字架の上だと思い、喜んで死にますと伝えてください」と言い、5日の後、永い安息に入りました。

守山 祐次郎 もりやま ゆうじろう

 国太郎の子で、マツと甚三郎の弟にあたる14歳の祐次郎は、杉丸太に十文字にしばりつけられたり、裸で竹縁に座らせられたり、寒風にさらされたり、凍りつくような冷水を浴びせられたり、いろいろ責めたてられました。鞭打たれるたびに少年の泣き叫ぶ声が牢まで聞こえ、浦上の人たちはわが身を責められるような思いでした。衰弱して危険な状態になり、牢に戻された祐次郎は、看病する姉のマツに「悲鳴を上げてしまってごめんなさい。折檻を受けて8日目、もう耐えきれないと思ったとき、向こうの屋根の上を見ると、一羽の雀がご飯粒を含んできて、子雀の口に入れてやっているのを見ました。私はすぐイエズスさま、マリアさまのことを思い出し、子雀でも神さまから親雀によって大事に守られていると思うと、私がここで責められるのを神さまがご覧になって、より以上にかわいく思ってくださらないはずはない。こう思うと勇気百倍、元気が出て、なんの苦しみもなく耐え忍ぶことができました」と話しました。雀親子の愛を見て神の愛を悟った祐次郎は、1871年1月16日( 明治3年11月26日)、その美しく勇ましい魂を神のみ手にゆだねました。

岩永 又市 いわなが またいち

 信徒発見から10日ばかりたってプティジャン神父は、「訪問した人たちの中の一人が、彼らの間で、今でも洗礼が保持されているということを教えてくれました」と、ジラール教区長に報告し、潜伏キリシタンの中に水方(潜伏キリシタンの指導的地位にあり、洗礼を授ける役目を果たす)をつとめていた岩永又市の存在を伝えました。又市は、1856年( 安政3年)に発生した浦上キリシタンの検挙事件、いわゆる、「浦上三番崩れ」でただ一人生き残った水方だったのです。つまり、浦上のキリシタン教会では指導的地位に立つ信仰上の勇士でした。彼は、「なわこもや」の名で知られた平の豪農の出でもありました。第一次流配で津和野に流され、凍りつくような池に投げ込まれて水の拷問を受けました。残った家族も、萩に流された長男を除き、妻、息子2人、娘3人と長男の娘たちが津和野に流され、又市に合流しました。彼の妻のすきは、彼が死去して1か月もたたないうちに夫に殉じ、また、娘のもり(もりちゃん)も6歳で翌1871年(明治4年)に亡くなりました。三男の三次郎( 信平)は後に司祭となりました。

岩永 源八 いわなが げんぱち

 源八も又市と同じ平の出身で、第一次、第二次のいずれかで流されたか、わかりません。家族全員がそろっての津和野行きではなかったのですが、1870年11月1日( 明治3年10月8日)に亡くなりました。源八については、『異宗門徒人員帳』に記されている死亡年月日だけしか、記録が残っておりませんが、ヴィリヨン神父の『日本で五十年』に、いっしょに流された娘で(おそらく『異宗門徒人員帳』に見える「辛未十一歳 娘 不改心 せき」でしょう)、後に修道女になったヨハンナのことが記述された箇所に父親である源八の死のことが出てきますので、それを引用しておきます。
 「初日からヨハンナは、〔津和野の〕町から出て近くの丘の峡谷に私たちを連れてきました。険しい細い道を通ると丘の中腹で平坦になり、そこの畑の中央に墓石、細長く頭の丸い石碑がいくつか建っていました。これは、仏僧の墓所でした。1869年にキリスト信仰を告白した者たちの牢獄として光琳寺の関係のうちで残されたものはこれだけでした。……ヨハンナが突然、畑の隅を示しながら、『あっ』と叫んで、『ここです。ここです。ここが寺の倉のあったところです。せいぜい6畳ほどの広さで、そこに私たち35人が押し込められていました。父が亡くなったのもここでした』と言ったのです」。