乙女峠の証し人
カトリック広島司教区列聖委員会

浦上から津和野へ

 

1,第一次流配(1868年)

 1868年(慶応4年)7月9日、浦上キリシタンの配流が最終的に確定、翌10日から着手されました。その結果、西役所へ出頭した高木仙右衞門に代表される、キリシタンの中心人物114人(全員男子)が、山口(萩)・津和野・福山の3藩に送られることになりました。
 11日に金沢藩の蒸気船で長崎を出帆しました。下関で萩行きの66人と、尾道で福山行きの20人と別れ、残った28人は天寧寺に14,5日とどめ置かれ、その後、津和野の役人に引き渡されてふたたび乗船して津和野藩の船屋敷のあったに廿日市(現広島県)に上陸した後、津和野街道を通って、中国山脈の生山峠を横断しました。途中2泊して、3日目に津和野に着き、城下から離れた光琳寺に収容されました。
 津和野への移送は、津和野藩の申し出によるものでありました。明治新政府の成立早々、藩主亀井茲監と福羽美静の主従が、そろって神祇行政の先頭にたった津和野藩では、神道を振興することでキリシタンの早急な教諭にあたろうとし、それがキリシタンの受け入れ声明につながったのです。
配流のルート図 浦上から尾道、廿日市を経て津和野へ

 

2,第二次流配(1869年)

 
 第一次流配後の明治2年(1869年)3月ごろから、尊王攘夷運動の活発化にともなってキリシタン問題には新しい動きが見られることになりました。すなわち、平田派の国学者や尊王攘夷派の諸藩士や浪士の動向、さらには排キリスト教活動を展開する仏教勢力の動きと絡んで、政府は何らかの決断を下さなければならなくなったのです。その結果、5月の公議所でのキリスト教問題の検討に始まり、10月にはキリシタンを受け入れる予定の諸藩に対し、キリシタン取り扱いに関する注意点が通達されることになりますが、諸藩の多くは、キリシタンを受け入れた場合の財政負担などの増大を理由に、すぐには実行に移しませんでした。しかし、政府は強引にも第二次流配者たちの移送と受け取りとを諸藩に押しつけたのです。こうして第二次流配者たちの移送は、明治2年12月上旬に開始されました。流配されたキリシタンの総数の正確な数を断定することはできませんが、およそ3,300人前後であったということです。
 津和野藩は、山口藩(萩)や福山藩と同様、流配者の受け入れが2度目ということもあって、キリシタンたちを預かった諸藩(20藩)の中で唯一、10万石以下の小藩であったにもかかわらず、他藩よりも相対的に多い125人のキリシタンを受け入れることになりました。
 津和野へ新たに送られてきたキリシタンは125人で、ほとんどが前に流された28人の家族でした。これは、外交団からの抗議を受け入れて、政府が家族を離散させないという配慮を示したためでもあります。
 彼らは、西役所で津和野行きを申し渡され、平戸屋敷に1泊した後、陸路時津に出て、御厨に20日ほど滞在しました。そこから汽船に乗って第一次流配者と同じように尾道に寄り、そこから海路廿日市、さらに陸路津和野を目指して光琳寺に入り、浦上で別れてから2年余りを経て、第一次流配者のうちの12人に合流しました。125人が到着した12月までに、28人の第一次流配者のうち、すでに8人の死者と8人の棄教者を出していました。