津和野でのこと
キリシタンの生活と、それに対する藩の関わり方は、『十二県御預異宗徒巡視概略津和野県』(国立公文書館所蔵)や後年、津和野に流配されたキリシタンが語った思い出話(いわゆる「旅の話」)によって詳細にわかります。
「掛巻もかしこき天津神国つ神
産土大神言別てハ……」で始ま
る祝詞( 国立公文書館所蔵)
毎朝、日本が尊い神国であるいわれを説いて改心を勧める教諭係の神官の唱える祝詞を聞かされ、神を拝するよう強いられました。その後、改心を勧める教諭がなされ、それが済むと、労働に従事させられ、男性は縄・筵・わらじなどを作る藁仕事に、女性は洗濯や裁縫などの仕事にあたらせられました。
住居は改心者と不改心者に分けられ、改心者は森村にあったもと尼寺の法心庵に、不改心者は廃寺であった浄土宗の光琳寺に収容され、改宗指導されました。
当初は、キリシタンが政府からの預かり人であったので、間違いがあってはとの配慮から、比較的丁寧な扱いを受けていましたが、まもなく、藩の態度が変わり、減食策(粥のような麦飯を、1日に3合あるかないか程度支給)が実施されました。そのため、たちまち8人の改心者が出てしまいました。改心者は、毎日白米5合が支給され、労働も自由にできるようになりました。不改心者に対しては、ときに三尺牢(90㎝四方のせまい檻)に押し込めたり、氷の張った池に投げ込んだりするなどの拷問がなされました。そして死者に対しては、改心者の場合は神葬に、不改心者は仮埋葬されました。
乙女山もと光琳寺
不改心者の宿泊所図(国立公文書館所蔵)
光琳寺は二方を山で囲まれ、さらに敷地の周囲には柵がめぐらされていました。出入り口に続く2部屋(55畳)に47人が押し込められ、高木仙右衞門ら指導者と目された4人は番所に近い別棟にて収容されていました。