乙女峠の証し人
カトリック広島司教区列聖委員会

信徒発見から旅立ちまで

 

1,衝撃

 江戸幕府三代将軍徳川家光は、1637年(寛永14年)に起こった島原の乱をきっかけに、日本を侵略する可能性があると思われる外国との交易をやめる政策を打ち出しました。そしてついに、日本に来る外国人はオランダ船と中国船に限る鎖国の方針を強めていったのです。鎖国の主な目的は、キリスト教を日本に入れないようにすることです。
 それから約200年後の1853年(嘉永6年)、アメリカの東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー提督(MatthewPerry,1794-1858)が、蒸気船の艦隊を率いて、江戸湾の浦賀に姿を現しました。そして軍事力をちらつかせて日本の港をアメリカに開くよう要求したのです。翌1854年(安政元年)、幕府は、再来航したペリー提督と日米和親条約を結び、下田と箱館(現函館)を開港しました。こうして鎖国の政策は終わりを告げました。
 江戸幕府は、アメリカだけでなく、ヨーロッパの国々の圧力にも耐えられず1858年(安政5年)、アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと修好通商条約(安政五か国条約)を結びました。こうした状況のもとで、その力が日に日に弱まる幕府にとって、追い打ちをかけるような驚くべき事実が明らかになります。約250年にわたって公に厳しく取り締まってきたはずのキリスト教の信仰が、長崎の浦上地区で組織的に受け継がれていたことが明らかになったのです。やがて開国に始まるいくつもの激震によって力を失った江戸幕府は倒され、天皇を中心とする明治政府が生まれました。明治政府を作った勢力が江戸幕府を倒そうとした大きな理由の一つは、日本をもとの鎖国の状態に戻すことでした。しかしもはや、そんなことができるはずはありません。それどころか明治政府は、外国の文明をますます取り入れる方向に大きく舵をきりました。ヨーロッパやアメリカの文明と深い関係にあるとわかっていても、キリスト教を日本に入れたくない。
 当時の日本は、こんな難しい問題に直面することになりました。
 

2,輝く闇に向かって -キリシタンの発見-

 1865年(元治2年)、長崎に赴任したパリ外国宣教会のカトリック司祭ベルナール・プティジャン神父(Bernard-Thadée Petitjean, 1829-1884)は、フランス人居留地に、高い尖塔をもつ教会堂を建立しました。これが、現在、国宝に指定されている大浦天主堂です。もともとフランス人のための教会として建てられたので、フランス寺と呼ばれたそうです。これを機に、キリスト教の信仰を代々密かに守ってきたキリシタンが、浦上地方一帯にいることが明るみに出ることになりました。フランス人居留地にほど近い浦上はその昔、キリシタン大名として知られる有馬晴信が、イエズス会に寄進した土地です。ここには、江戸時代を通じてキリスト教の信仰が根強く残っていたのです。
 フランス寺ができて1か月ほどたった3月17日、杉本ユリたち浦上のキリシタン15人が密かにフランス寺を訪れました。面々は、聖堂で祈るプティジャン神父に近づき、「ワタシノムネ、アナタノムネトオナジ」とささやいたそうです。「私たちはあなたと同じ信仰をもっていますよ」という意味です。厳しい禁教令のもと、司祭がいない状況で200年以上もキリスト教の信仰が受け継がれていることが、このとき初めて明らかになりました。戸惑いながらも喜びに包まれたプティジャン神父は、すぐさま信者たちをマリア像へ案内しました。その「信徒発見のマリア像」は、今も大浦天主堂にあって、訪れる人びとを見守っています。
 この知らせは、世界中のキリスト教信徒の間を駆け巡りました。そして五島や外海にいた潜伏キリシタンにも伝わりました。
 カトリック司祭を迎えた浦上のキリシタンは、もはや信仰を隠してはおきません。1867年(慶応3年)、信徒たちは、亡くなった一人の村人の葬儀について相談を重ねました。その結果、これからは死者が出たとき庄屋には届けるが、葬儀は仏教とは関係なく行うことにしたのです。そしてこれを記した口上書を庄屋に提出しました。驚いた庄屋は長崎奉行所に届け出ました。役人たちは、相談の末、キリシタン68人を捕らえ、激しい拷問を加えて信仰を棄てるよう尋問しました。「浦上四番崩れ」騒動の発端です。
 幕府の役人の取り調べに対し、信徒たちは信仰を公に言い表しました。こうして政府の手によるキリシタンへの厳しい弾圧が始まります。浦上一帯に住む3,000人以上のキリシタンが捕らえられ、西日本の大名のうち、十万石以上(津和野藩を除く)の20藩22か所に流され、神道への改宗を迫られました。それは明治政府へと引き継がれることになります。こうして信仰に生きる人びとは、深い闇の虜になりました。しかしそれは現代に住む私たちを照らす光になったのです。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(コリントの信徒への手紙二4章6節)。
 

3,葛藤

 明治政府は、キリスト教を認めない方針を江戸幕府から引き継ぎました。そして浦上一帯で見つかったキリシタンたちへの迫害も引き継いだのです。しかし迫害の目的や方法は、江戸幕府のそれとだいぶ異なっていたようです。江戸幕府による迫害の目的は、キリシタンに信仰を棄てさせることでした。明治政府の迫害は、キリシタンに日本の神々を信じるよう仕向けること、つまり神道への改宗を迫ったのです。江戸幕府のもとでキリスト教を取り締まったのは、役人である武士たちでしたが、明治政府で主導権を握ったのは、神道学者や国学者出身の官僚です。それには理由があります。明治政府は、最高の神である天照大神の直系の子孫とされる天皇を中心に据えて国の統合をはかりました。つまり神道と政治を一体として考えたのです。これを祭政一致による王政復古と言います。宗教政策の中枢を担った神道家や国学者は、神祇官と呼ばれ、行政機関の筆頭に置かれたほどです。
 明治政府ができたとき、古来の政治の形をそのまま復活させたい保守系の平田神道派が、政府の要職を占めていました。しかし平田派は、1871年(明治4年)に国事犯の疑いで追放されてしまいます。変わって、新しい時代に積極的に合わせていこうと考える進歩派が、神祇官に任命されました。津和野藩主亀井茲監(1825-1881)、同藩出身の福羽美静(1831-1907)らです。津和野出身の神道官僚は、キリシタンの扱いについて、宗教家らしい穏健な策を提案しました。神道の教えに精通した人が、根気よく教え諭せば、学問に親しんでいないキリシタンを神道に改宗させることなど、わけもないことだとの考えを主張したのです。キリスト教は日本に害をもたらす教えではあるが、非人道的な方法で改宗を強いることは、国学者の誇りが許さなかったのでしょうか。
 

4,そして拷問

 浦上のキリシタンの中から津和野に連れてこられたのは合計153人です。十万石にはるかに及ばない津和野が、なぜ、他より多くの信徒を受け入れたのか、しかも浦上のキリシタンの中で指導的な者が津和野に送られたのか。その理由は明らかです。明治政府の宗教政策を担う津和野出身者が、キリスト信者への穏やかな説得を主張したからだと言われます。理屈で信じている信仰なら、それを超える理屈を持ち出すことで、別の信仰に入るよう説得できるかもしれません。優れた学問を修め、秀才であった国学者たちから見れば、学問とは無縁の生活に明け暮れしたキリシタンの信念を変えることなど、何でもないと思ったのでしょう。しかし、明治政府の期待と予想に反して、津和野で試みた穏やかな諭しは、いつまでたっても一向に成果を上げません。信仰は、理屈を超えたところに成り立つものだからです。そこで明治政府は、ついに方針を大きく変えました。力尽くでも改宗を迫ることにしたのです。水責め、雪責め、氷責め、三尺牢に閉じ込める箱詰め、食べ物を与えない、親の前でその子どもを痛めつけるなど、キリシタンを苦しめた拷問はさまざまでした。その激しさと悲惨さ、残虐さは江戸時代以上だったと言われます。しかしこのようなやり方は、日本が近代国家の手本にしたいヨーロッパ各国から、予想もしない激しい反発を招くことになりました。
 

5,帰郷

 日本に駐在していた各国の公使などの外交官は、日本政府によるキリシタンへの拷問の様子を自分の国に報告すると同時に、明治政府に繰り返し抗議しました。そうした折りも折り、政府は1871年12月(明治4年11月)、右大臣岩倉具視を特命全権大使、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳を副使とする遣外使節団をアメリカとヨーロッパ諸国に派遣しました。目的は、日本にとって不平等な安政の諸条約を改正するための予備交渉と欧米の文物・諸制度の視察でした。とりわけ、安政の諸条約は1872年7月1日(明治5年5月26日)が協議による改定期限であったため、この使節団に寄せる日本政府の期待は大きかったのです。しかし使節団の人びとは意外な目に遭い、当惑することになります。アメリカの大統領ユリシーズ・S・グラント、イギリス女王ヴィクトリア、デンマーク王クリスチャン9世らから、キリシタンに対する明治政府の政策が激しく非難されたのです。岩倉一行は、キリスト教への弾圧が、条約改正にとって大きな障害であることを、痛いほど思い知らされることになったのです。岩倉使節団の到着を知らせる新聞各紙が、キリシタンへの弾圧は、人権を踏みにじる暴挙だと、こぞって書き立てました。こうして日本に対する世論は厳しさを増していきありのります。当時の駐米少弁務使(現在の代理公使)森有礼(1847-1889)はReligious Freedom in Japan : a memorial and draft of charter(『日本宗教自由論』)を著して禁教政策を続ける難しさを訴えました。浄土真宗本願寺派の僧侶で西本願寺執行長であった島地黙雷(1838-1911)は、「三条教則批判建白書」の中で、政教分離、信教の自由を主張、森有礼に賛成する意見を述べました。しかしこれには根強い反対がありました。江戸時代、国を開くことに反対した政府内の保守派は、「神道が国の宗教である以上、異国の宗教を取り締まるのは当然」、「キリスト教の信仰を自由にしても、アメリカやヨーロッパが、条約の改正にすんなりと応じるとは思えない」などと述べ、禁教令の廃止を強硬に反対しました。また長年キリスト教を邪悪な宗教であると信じてきた一般の民衆も、キリスト教への恐れから、解禁に反対する声を上げたのです。このような雰囲気の中で、明治政府は、キリスト教を解禁しようとはしませんでした。仏教の指導者の中には、自分たちとの共通の敵であるキリスト教に対する政府の敵対心を利用して、当時、こじれていた政府と仏教との関係を良くしていこうという動きが起こりました。そのころ明治政府は、神道を国の宗教とする立場から、仏教をも激しく弾圧していたからです。しかし岩倉使節団は、ついに、滞在先のベルリンから政府に打電しました。浦上のキリシタンを一刻も早く解放しないと、条約の改正は望めないと訴えました。
 1873年(明治6年)2月24日、政府は、太政官布告第68号により、キリシタン禁制の高札を撤去しました。これにより、江戸時代初期以来続いたキリスト教に対する禁教政策に終止符が打たれました。その後、日本でキリスト教の宣教活動が活発になります。こうした政策の大転換により、各地に捕らわれていたキリシタンは、故郷に帰る悲願を叶えました。しかし、その後の「安寧秩序ヲ妨ケス」(大日本帝国憲法第28条)という極めて漠然不明確な規定があり、また、キリスト教の宣教が公に認められるには、1899年(明治32年)の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」まで待たねばなりません。さらに、全面的に信教の自由と政教分離原則の規定について保障されるのは、『日本国憲法』(1946年(昭和21年)施行)の第20条です。