乙女峠の証し人
カトリック広島司教区列聖委員会

殉教とは

 
 
 津和野の乙女峠。 せせらぎに沿って曲がりくねった急な小道を上り詰めると、 そこには小聖堂をもつ美しい広場が広がっています。 木々の緑に囲まれたその場所は、 四季を通じてのどかなたたずまいを見せ、 訪れる人を和ませます。 今から150年ほど前、 同じこの場所で、 厳しい拷問によって大勢のキリシタンが命を落としたとは、 とても思えない癒やしの空間です。
 ともすれば、 殉教ということばには、 どこか重苦しさがつきまとうかもしれません。 しかし乙女峠は、 およそそれとは無縁の、 清い雰囲気をたたえています。 ここは今、 1年を通じて多くの巡礼者を集める、 キリスト信者の聖地になっているのです。
 では、 殉教とは何でしょう。 殉教とは、 陰惨で暗い出来事に過ぎないのでしょうか。
漢字の 「殉」 は、 もともと 「追い死に」 です。 尊い人や理想などのために命を差し出すことです。 殉職と言えば、 職業上の働きでだれかを救うために身命を落とすことです。 そこで、 教えのために命をささげた人を 「殉教者」 というようになりました。
 さて、 日本語で 「殉教」 と訳されるギリシャ語のマルティリオンは、 「証し」 を意味することばで、 もともと、 死とは無縁です。 証しには、 いろいろな種類があります。 ことばによる証し、 資料による証し、 行いによる証しなどです。 その中で、 端的にこれぞ 「証し」 と言われる最高の証しは、 命をかけた証しでしょう。 そこで、 単に証し(マルティリオン)と言えば、 命をかけた証しを指すようになりました。
 キリシタンの信仰は、 知識の量や理屈を信じることでも、 単なる理想や信念でもありません。 「神は、 あなたを愛していますよ」 という、 そのひと言を信じることに尽きます。 命の源である神は、 死を超えて、 なお私をしっかりと抱き留めて愛し続ける。 このことです。 それが本当であることを知るには、 神から証しを受けるしかありません。
 夫婦の間の愛を例にとってみましょう。 夫が、 日頃いくら妻を愛していると言ったところで、 命の危険が迫ったとき、 妻を置いてさっさと逃げてしまっては、 何にもなりません。 自分の命を捨てても妻を守ってこそ、 妻への真実の愛が証明されます。
 殉教は、 非暴力でなければ証しになりません。 ある国の若者が、 祖国のためと思って爆弾を抱え、 他国で自爆する。 祖国の人びとにとって、 これは英雄の行為と受け取られるかもしれません。 でも相手の国にとっては、 無差別殺人の自爆テロにすぎません。 いくら愛のためでも、暴力は、 証しとはほど遠いのです。 キリシタンが、 正しい信仰のためとはいえ、 暴力で反対者に立ち向かうなら、それは、 暴力の連鎖を引き起こす犯罪者の行いになってしまいます。 たとえ正当防衛と認められるとわかったとしても、 決してだれも傷つけない。 これが愛の証しです。こうした境地を開いたのは、 イエス・キリストです。 イエスは、 人びとへの徹底した愛を実現するために、 敵対する人びとの決定にさえも従って、 殺される運命を引き受けました。 そして憎悪に燃える敵をも赦したのです。
「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』」( ルカによる福音書23章34節)。
 殉教地は、 愛の証しが示された場所です。 だから、 単なる殺戮の史跡のような陰惨な雰囲気がないのかもしれません。